時をかける少年



 どうしよう、阿部君の顔がだんだんと怒ってってる。オレがバカだから、ぜんぜん覚えられないから、阿部君すっごいイライラしてる。
 次の練習試合に向けて、阿部君とオレは日の沈みきったグラウンドのベンチの隅に向かい合って座って、試合相手のバッターの癖について打ち合わせしてる。
 打ち合わせって阿部君はいつも言うけど、これはテストだよねえ。
 二番、三番のバッターまではなんとかヒントをもらえて答えることができたけど、肝心の四番バッターの癖について、オレは頭の中が真っ白になっちゃってすっかり忘れてしまってる。名前すら思い出せない。よ、よし、よしだ?よしもと?
 ヒザに置いた握りこぶしの中に、汗がじんわりと染みてきてぬるぬるして気持ち悪い。練習着のズボンでごしごし拭いてたら、阿部君の大きなため息が聞こえてきた。
 お、怒ってる…。
「あのさ、覚えてねんなら覚えてねえって言えばいいのにさ」
「お、覚えて、な、なくもない、から…」
「はあ? だったら早く答えろよ」
「うう…」
 阿部君の声がどんどん低くなってってる。本当に覚えてきたのに、どうして出てこないんだろう。思い出そうとぎゅって目をつぶったら、五番の人と九番の人の情報がごっちゃになって出てきちゃう。余計なことばーっかり頭に浮かんで、四番の人が誰だったかも分からなくなってきた。
「っとによお!」
 ガツンッて金属がぶつかる音がしてびっくりして目を開けると、阿部君がスパイクでベンチを蹴っていた。ベンチの背もたれがたわんで、阿部君の足がずるって落ちていく。
 怒らせちゃったよお!!!!!
「四番ヨシザワ!典型的なプルヒッターで内角が苦手!好きなのは高めの外!バントは苦手!わーったか!」
「は、はひい!」
「おめーはなんだってこんな簡単なことくらい覚えてねんだよ!基本中の基本だろ、バカ!」
「ご、ごめんなさい…」
 目のあたりが熱くなって、涙がじんわりとこみ上げてくる。のど元が苦しくって口をあけたら「ひくっ」て泣いてるような声が出ちゃった。
 泣いちゃだめだ、また怒らせちゃう、嫌われちゃうよう。
うっと声をこらえて我慢してたら、体がスーッと浮くような感じがして、ふわっと眩暈がした。
 くるくるとまわる景色がチカチカと輝いて、眩暈がだんだん早くなっていく。
 気絶しちゃうのかな、オレ。情けない…。
「三橋?」
 呼ばれてハッと目をあけると、気絶して倒れたかと思っていたのにちゃんとベンチに座っていた。
「は、はれ…?」
 目の前には阿部君がさっきと同じようにベンチのふちに座って、緑の蛍光ペンでコツコツとデータが書かれている用紙を軽く叩いている。
「大丈夫か?」
「へっ、あ、うん…」
 ごしごしと目元をこすると、さっきちょこっと出てたはずの涙は乾いていて、まぶたがひりひりとした。
「じゃあ、次はえーと、四番…四番か?」
「う。え、よん、ばん」
 四番はさっき終わったんじゃなかったっけ。
も、もしかしたらもう一度チャンスをくれているのかもしれない。阿部君はさっき答えを教えてくれた。それを言えなきゃ、また怒られちゃう。
「えっと、四番は、ヨシザワ…くん、プルヒッターで、内角とバントが苦手で、外が、好き…?」
 どうだろう、あっているだろうか。教えてもらったばっかりなのに間違えたら、今度こそうめぼしくらわされるかもしれない。上目遣いで見たら、阿部君が難しい顔してる。ま、間違えてたのだろうか。
 ドキドキしてたら、阿部君が顔をあげてニコっと笑った。
「オッケ、じゃあ次、五番な」
「あ、あう…」
 四番の人がすぎたら、五番の人と九番の人だけちょっと違って、あとはみんな一緒の情報だったから楽だった。
 途中でちょっとつっかえると阿部君が厳しい目で見てきたけど、オレはなんとかふんばって全部答えることができた。よ、よかった。
 打ち合わせを終えて部室に戻ると、もうみんな帰ってしまって誰もいなかった。早く着替えておうちに帰ってごはんを食べたい。
 でも、誰もいないから、もしかしたら阿部君は、キスくらいしてくれるかもしれない。
 そいで、もし、阿部君に時間があるなら、もしかしたらもしかするかもしれない。部室でだって、何回かしたことあるもんね。
 なんていやらしいこと考えるんだろう、オレ。隣で着替えている阿部君の服が擦れる音にすらどきどきしてしまう。
 あ、でも、そうだった。おとといした時にオレ、阿部君を怒らせちゃったんだった。
 いつもより阿部君がちょっと早く終わっちゃって、阿部君が「早かったな、悪ぃ」って言うから、オレはフォローしようと思って「大丈夫だよ!オレ、見たいテレビあるから、早く終わってよかった!」って言ったら、なんでか阿部君、もんのすっごおおおく怒って、どうやって怒られたのかもわかんないくらい、すっごい怒って、オレもまた泣いちゃって、ゲンコツで頭ぶたれた覚えがある。
 うう…。
オレのフォローの何がまずかったのか全然分からなかったけど、阿部君が「傷ついた!謝れ!」って言うから、オレは必死で一生懸命謝った。でも、そのことについて、許してくれてるのかは分からない。
 だって、そのあとからずっとチューもなんにもしてくれない。
 それ以外は普段どおりだけど、でもやっぱり、物足りない。オレってすごく、ワガママで傲慢だ。
 そういうことを思い出してたら、なんか涙が出てきた。阿部君に見つからないようにシャツの袖で拭いて、ゆっくりと息を吐く。
「なんで泣いてんの」
「あふっ!」
 なんで、なんでバレてるの?見られてた?
 どうしよう、阿部君がキスもなんもしてくれないから泣いてるなんて、言えないよ。
「今日はオレ、そんなに怒ってねえけど?」
「う、うん…」
 そういうんじゃないのに、阿部君は困ったような顔してる。でも、ちょっと優しい顔だ。
「こないだ、悪かったよ」
「え…」
「ぶって悪かった」
「う。ううん、オレのが、悪かった、よ」
 オレが下手くそなフォローをしたから、阿部君が怒っちゃったんであって、阿部君はなんにも悪くないのにそうやって言われると、オレは困ってしまう。
「ほんとに分かってんのかよ」
「うう…」
 答えに困っていると、阿部君は右の口はしだけあげてニィって笑った。意地悪な笑い方、でも、すごく楽しそう。
 上手に笑い返せなくてまごまごしていたら、阿部君の腕がオレの背中にまわって、顔が近づいてきた。
 柔らかくてあったかい唇が優しく触れて、ちゅって音をたてた。
 ああ、キスしてくれた。うれしい。
「帰るか」
「うん」
 続きはしないのかなってちょっと残念だったけど、でもおなかすいてるし、明日も早いし、阿部君の言うとおりにしてれば絶対間違いはないから、オレは阿部君のあとについて部室を出た。



 次の日もすごいいい天気だった。
 朝練は眠いけど涼しいしキツイことしないから、けっこう好きだ。
 瞑想もストレッチも気持ちよくてまた寝ちゃいそう。今日のオレはいつもより調子がいいぞ。ちょっと冷たかった隣の西広君に熱を分けてあげられたと思う。
 いつも通りのメニューをこなして、ボール拾いをはじめた。かがんだまま移動するのって意外とキツイけど、下半身が鍛えられるからいいんだって。
 たくさん生えた草の中に、もうボールはなさそうだ。立ち上がってバケツを持って歩き出したら、足の裏に何か当たって、ぐるんって世界がまわってオレは尻餅をついてた。
「いった…」
 見るとボールがもう一個だけ転がっていた。これ踏んで転んじゃったんだ。びっくりした。
「三橋ぃ!おめー何やってんだ!」
 かがんでボールを拾っていたら、阿部君の怒鳴り声が聞こえてきた。やばい!
 阿部君がトンボを振りかざしながらすごい勢いで走ってきて、逃げようとしたけど遅かった。
「見たぞおまえ!なんで転んだ!」
「え、あ、ボール踏んじゃって…」
「はあ?ったく気をつけろよ!腕ついて変なとこひねったらどーすんだ!このドジ!」
「ご、ごめんなさい…」
 朝から怒られてしまった。オレがこのチームのエースなんだから、怪我しないように気をつけないといけないのに、拾いきったつもりのボールで転ぶなんて、ほんとドジだよね。阿部君が怒るのも、しょうがないよ。
 情けなさで涙がでてきた。ああ、また怒られてしまう。反省してるのに泣いちゃうなんて、ほんと変だ…。
「泣くなよ」
 阿部君の困った声が聞こえてくる。
 あ、また眩暈がする。
変だな、今日は調子がいいはずなのに、もうおなかすいてるのかな?
足が地面についてないような、心細い感じがして、またくるくると目の前がまわって、スゥーっと意識が小さくなっていった。
 ぜったい倒れると思ったのに、気づくとオレは地面にかがんでいた。手にはボールを持っている。さっきボール拾いは終わったはずなのに、なんでだろう?
 立ち上がって周りを見渡してみると、ちょっと離れたところに一個だけボールが落ちていた。ひょいっと拾ってバケツにいれる。これでたぶん、もうオレの近くにボールは落ちてないはずだ。
 ふっと顔をあげるとトンボを持った阿部君が遠くに立っていた。
 な、なんでしょう?
 そしたら阿部君は小さく頷いて、トンボを引きずりながら用具入れの方に歩いていった。
 おかしいな、オレ、今、阿部君に怒られてたのに、なんであんなに遠くにいるんだろう。泣いてたはずなのに涙も出てないみたいだし。
 うう、よく分かんない。
 でも、昨日から、何かが少し変だって思う。なんだろう?


 朝練が終わってから授業中も、何が変なんだろうって、ずっと考えてみた。
 眩暈がしても倒れないのって、おかしいよね。
 ああいう風になる時って、だいたいスットーンって倒れちゃうのに。
 それに、泣いてたはずなのに顔も手もどっこも濡れてないっていうのもおかしい。
 あと、近くにいた阿部君が遠くにいるのもおかしかった。
 阿部君…。
 そういえば、阿部君に怒られると、変な風になってたかも。
 そいで、眩暈がして気がつくと、阿部君はもう怒ってないんだ。
 ううん…。
 四番バッターについてとか、ボール拾いとか、ヘマしないようにもう一回やらせてもらったりとか、してるのかな。
 うううー。
 なんだろう、やり直しているような、感じ?
 うん?いや、ほんとよく分かんない。
 む、難しい…。



 移動教室からの帰り道、みんなで階段を下っていると踊り場に阿部君がいた。オレの知らない、たぶん同じクラスの誰かとしゃべっている。
「よーお!阿部!おっす!」
「おお」
 田島君が挨拶すると、阿部君は手をあげて挨拶した。
 オ、オレも阿部君に挨拶したい!
 と思った瞬間、ずるっと足が滑って階段に尻餅ついてドドドッてお尻で階段下っちゃった…。
「あ、あで…」
「おお、大丈夫かー」
「何やってんだよー」
 泉君と田島君が笑いながら引っ張り起こしてくれた。ドジばっかりして恥ずかしい。
照れ笑いしながら立ち上がったら、目の前に阿部君のすっごい怒った顔があった。
「おめー!何してんだよ!」
 胸倉をつかまれたせいで、上履きをはいたオレの足が爪先立ちになった。
「なんっで普通に階段も降りられないんだよぉ!っとに!!」
「ご、ごめんな、さい…」
 揺さぶられて耳に直接怒鳴られると、キーンってなって、あ、また涙が出てきた。
「おい阿部ぇ、怪我もしてねんだから、そんなに怒ってやんなよ」
「そーだぞ!怒りすぎだぜ!」
 いいんだ、そんなかばってくれなくても。阿部君を見つけて浮かれちゃったオレが悪いんだから…。
 目をしばたかせたら、たまってた涙が一粒こぼれた。
「くそ、泣くなよ…」
 阿部君が沈んだ声で言うのが聞こえてきた瞬間、また眩暈がした。
足元が本当に浮いちゃってるみたいにふわふわする。阿部君、どうなってるんだろう、これ。
 ぐんにゃりと阿部君の顔がゆがんで、ぐるっと世界が回って、また意識が細くなって、気がついたらオレは、階段の上の方にいた。
「よーお!阿部!おっす!」
「おお」
 あれ、さっきと、同じ?
 田島君が阿部君に挨拶して、阿部君が田島君に手をあげて挨拶してる。
 オオオオオオレも阿部君に挨拶したいぞお!
 あっ、そうだった、さっきはここで、ズルって滑ったんだ。
そう、こんなふうに…!
 危ない!と思った瞬間、オレは手すりを掴んでいた。
 今度はなんとか、滑らずにすんだぞ。
 阿部君に怒られなくてすむ。
 踊り場にいる阿部君をみたら、阿部君は、なぜか、両腕を広げて何かを受け止めようとしていた。
 ど、どうしたんだろう。
「あ、あれ?」
 珍しく阿部君が変な、ちょっと間抜けな声を出した。
「なーにしてんだよ阿部、なんか落ちてきたかあ?」
 田島君が、ははは!と大きな声で笑った。
「なんでもねえよ、くそ」
 一瞬、阿部君ににらまれたような気がしたけど、気のせいだよね?
 だってオレは、落ちるのが分かってたから、ちゃんと手すりを掴めて助かったんだ。
 ん?
 …落ちるのが、分かってた?
 どういうことだ?



 部活が終わったあと、阿部君に残るように言われた。
 何かまた怒られるんじゃないだろうかと思ったけど、そうじゃなかった。
 今朝からの、不思議なことについての話だった。
「あれ、おまえ、気づいてた?」
「気づいてたっていうか、へ、変だなって、思って、た」
「そうか、おまえも気づいてたわけね」
「う、うん…」
 阿部君はあぐらに組んでいた足を組みなおして、オレの方に顔をつきだした。
「いつからこういうことがあった?」
「こ、こういうこと…?」
「時間が巻き戻ってるだろ」
「じかんが、まき、もどってる?」
 言ってる意味がよく分からなくて、繰り返し言ってみたけどやっぱり意味が分からない。どうしようと思って阿部君を見てたら、肩をゆすって大きなため息を吐いた。
「オレが知ってるのは三回だ」
 右手で三を作ってオレの前に突き出すから、思わずのけぞってしまった。
「さ、さんかい…」
「そう。昨日の打ち合わせんときと、それから今日の朝練の片付けのときと、あと、三時間目の放課」
 指を外側からまげて、いっこいっこ減らして、最後はグーにした。
 三回も阿部君は、ジカンがマキモドッテるのか。
 昨日と、朝練の片付けのときと、三時間目の放課の三回。
もしかして、オレもそうじゃないか?
「さ、三回!オレ、オレも、三回だ!」
 阿部君が言ったこと全部に心当たりのあるオレは、うんうんと頷いた。なんでか阿部君はちょっと笑った。
「だよな、なんだろうな、オレもおまえも、気づいてるんだよな。オレはオレがそうしてるのかなって思ってたけど、でもなあ…」
「ん、んん?」
 アゴに指を当てて阿部君は考えている。伸ばした人差し指でアゴをすすっとなでて、阿部君は目をあけた。
「ほらさ、きっかけってのか、時間が巻き戻るとき、オレが怒っておまえを泣かしてんじゃん」
「あ、うん、そ、だっけ」
「そうだったんだよ。だから、もしかしたら、おまえがオレに怒られないようにヘマしたことをもう一回やり直そうとしてんのかなって、今思った」
「お、おお…!」
 阿部君はすごい!なんでそんなことが分かるんだろう。そうか、オレが阿部君に怒られたくないから、もう一回やらせてもらえるんだな!
「ま、さしずめおまえは、時をかける少年ってとこだな」
「へ、へえ!」
 言ってから阿部君は、ちょっと照れくさそうに笑った。
「おめーのことだよ」
 軽くオレのおでこをはたいて、それから腕を掴んで引き寄せた。
 阿部君の顔がだんだん近づいてくる。
 むちゅって柔らかい唇があたってすぐに離れた。もっと長いのがしたい。
「オレさ、おまえのこと泣かすほど怒りたくないって、こないだすげー反省したんだ」
「う、うう?」
「こないだ、ぶったとき」
「あ…、い、いいのに、オレが、悪いでしょう」
「違うだろ。おまえの言葉足らずなとことか、分かってるのにさ」
 言いながら阿部君はオレにのしかかってくるから、オレも足をずらして阿部君を迎え入れるようにゆっくりと床に倒れた。
「怒ってばっかで、ごめんな」
「ん…、いい、よ。そしたら、もっかい、やり直す、から」
「うん…」
 オレにかぶさって、上からの電気で陰ができている阿部君の顔がすごくかっこよくて、ぼうっとしちゃう。思わず手を伸ばして、阿部君のほっぺたに触れた。
「阿部君、か、かっこいい…」
 言った瞬間に、ガバッと阿部君は起き上がった。
 めちゃくちゃムスッとした顔してる。
 な、なんで?なに?どうして?
 オレ、またなんかまずいこと言っちゃった!?
 ほ、褒めたのに!!!
「ご、ごめんなさい…」
 じわっと涙が出てくる。またジカンがマキモドって、やり直せるかな?
 今度は変なこと言わないでおこう。
「泣くなよ…怒ったんじゃねんだら。やり直すの、めんどくせーよ」
「うう…」
「あれ?」
「う?」
 阿部君を怒らせて泣いてるのに、眩暈もしないしやり直しもできない。
 なんでだろう?
 もう、やり直しできないのかな。
「三橋、わかった」
「な、なんでしょう…」
「時をかける少年は、おまえじゃなくてオレだった」
「そ、なの?」
「うん、だって、今のは」
 怒ったんじゃなかったし、って言って、阿部君はちょっと笑ってまたオレにキスをしてくれた。






おしまい






なんちゃってSF。